寄稿

2015年8月6日第1回「『平和の鐘』響け再び記念式」に向けて寄稿いただいたものです。

平和の鐘に思う

船越聖示
(「平和の鐘」響け再び提案者)

昭和62年、私は「ふるさと五日市」という写真集を発行いたしました。その中で五日市の鋳物師、入江さんがこの鐘の鋳造に携わってこられたことも書いておいたのです。
昨年、ふとしたことから浜井信三元市長のご子息とお会いする機会がありまして、彼もまた、鐘の取り扱いを残念がっておられることを聞きました。   
市民から「広島の父」とも慕われ、尊敬された浜井元市長が広島の廃墟の中から金属片集めに協力を求めたものや、鋳物工場にあった鋳物を集め、できた鐘です。広島市民の祈りなのです。金属集めに協力した市民、鋳物師たち、デザインをしてくれた人に感謝をしたいと思います。かの建築家丹下健三先生の設計図にも平和公園の中央に鐘の設計が含まれていました。
 
口径1.2m、高さ1.4m、 重さ800kg、 「ノ- モア ヒロシマ」 の英文と平和の象徴の鳩の羽ばたきが刻みこまれています。昭和24年8月の第3回平和祭で鳴らされた後は、現在の鉄骨の塔に据えられたまま、この鐘は鳴らされることはありませんでした。
かつて、奈良の薬師寺でのお話ですが、西塔の復興には数億の資金が入用になったとき、ある製薬会社の社長が全額の協力を申し入れたそうです。それを断り高田好胤師はできるだけ多くの人の発願を聞きたいと一口1000円の写経を提起し、かの西塔が再建されたと聞いています。

昭和22年以降は「広島平和の鐘」は式典で毎年鳴らされてまいりました。「平和の鐘」の初代のものは昭和26年盗難に遭っています。三代目は光元寺、四代目は観音寺から借りうけて式典で鳴らされています。昭和42年以降は香取正彦氏(人間国宝)から寄贈されたものを使っています。鐘の正面に「平和」の文字があります。吉田茂氏の揮毫のものです。(現在は平和記念資料館に展示中)

今年、広島は被爆70周年を迎えます。 広島県地域文化功労者表彰の栄誉に輝いた広島合唱同好会の皆さんの「ひろしま平和の歌」とともに。
 
   平和の鐘よ響け「広島の空」に、「世界のすみずみまでも」

忘れられた「平和の鐘」

松村伸吉
(広島銅合金鋳造会会長の遺族)

父 故 松村米吉たち13社の広島銅合金鋳造会が広島市に寄贈した「平和の鐘」は、「鳴らずの鐘」と呼ばれたこともありました。昭和24年8月6日一度だけ鳴らされました。それ以来、平和の祈りのために鳴らされたことがなかったからです。
当時の浜井信三市長の依頼を受け、原爆の焼け跡の金属もその中に溶かし込んで造った鐘は、ずっと公園の木々に囲まれて静かにたたずんでいました。800kgもの鐘は、緑井の作業所から牛や馬に引かれて基町まで運ばれたものです。
鉄骨の鐘楼に据えられて緑の中に埋もれ、半ば忘れられていた鐘が、今年8月6日、平和の祈りとともに再びその役割を果たしてくれることを、天国のオヤジも喜んでくれていると思います。
製造にかかわった遺族の一人として、また被爆者の一人としてお礼を申し上げます。