2015年参加者の声

「父を偲ぶ」

荘川一子
(金子合金所 金子一十氏 次女)

このたびは八月の暑いさなか、高東様をはじめ実行委員会の皆さまのご尽力により、七十年ぶりの平和の鐘の音を聴く貴重な機会にあえましたこと、心より感謝しております。
私たち家族五人は昭和二十一年八月、終戦一年後満州国奉天市より引き揚げてまいりました。兄弟の話によると当時私は生まれたばかり、首も据わらない赤ん坊でした。引き揚げの船の中、兄弟たちは栄養失調による下痢、あげくの果てには迷子になったりと大変な中、私のみ乳呑児であったため、病気ひとつせず元気であったと。そのことだけが褒められたと今だに語り草となっております。
確かに、あの混乱期最悪の状況の中、よくぞ一人も欠けることなく連れて帰ってもらえたとありがたく思っております。
父は満州で手広く鋳造所を営んでおりましたが、運命には逆らえぬもの。裸一貫での帰国であり、その時分の父の気持ちを考えると、さぞ無念であったろうと察します。ですが、良く考えて見ますと帰国後の大混乱の中、平和の鐘の作成に携わったことになります。
写真では叔父や従業員の方たちの顔もあり、今更ながら父の行動力の偉大さを深く感じますし、鋳造組合の方々の並々ならぬ団結力の強さと誠意に深く感服する次第です。もっと詳しく聞いておくんだったなと、今では申し訳ない思いでいっぱいです。
今回の平和の鐘の音で、父たちや組合の皆さまのことをたくさん偲ぶことができて、本当に良かったなと思いました。
これからも世界中が平和でありますように。いつまでも清らかに気高く鐘の音が鳴り響きますようにと念じております。
感謝

「ひいおじいちゃんがつくった鐘」

松村亜美
(広島銅合金鋳造会会長 松村合金所 松村米吉氏曽孫・中学2年生)

私は八月六日、平和の鐘を鳴らしました。平和の鐘は、原爆の焼け跡の金属もその中に溶かし込んで造ってあるそうです。その鐘は66年間鳴らされたことがなかったそうです。被爆70周年の今年、世界の平和を願う市民により二度鳴らされることになりました。私はそんな鐘を鳴らすことができると聞いて、嬉しくなりました。なぜなら、世界の平和のために鐘が鳴らせるからです。私が鐘を鳴らして思ったことが二つあります。一つ目は、世界が幸せになってほしいということです。世界が平和になればみんなが笑顔になるからです。二つ目は、ひいおじいちゃんまで、届いてほしいことです。平和の鐘は、ひいおじいちゃんたちがつくったので、もう一度聞かせてあげたいなと思ったからです。来年からも、ずっと平和を祈り続けながら、鳴り続けてほしいです。

「蘇った平和の鐘」

岩本一彦
(広島金属鋳造所 岩本重一氏 長男)

父は入市被爆の影響もあって、昭和40年54歳で他界しました。
私が生まれて5カ月後に原爆が投下されました。
母乳を飲むと良くないということで、その後母は街(横川)に一年間行かせてもらえなかったそうです。
父は放射能の影響があることを分かっていたように思います。
母が、生前に平和の鐘が父が経営していた緑井の工場で製造されて、中央公園に設置されていることと、当日は牛に引かれて大そう賑わったということくらいで、詳しいことは知りませんでした。
一度だけ鐘を見に行きましたが、さびれていて何か寂しく感じました。
このたび、当時の工場で父に抱かれて懐かしい職人さんと一緒の写真、そして牛7頭、馬3頭で引かれる様子など「平和の鐘」記念式に参加して、長年疑問に思っていたことが理解できて本当に良かったと思います。
式典ではたくさんの参加者のもと鐘を鳴らすことができて、亡き父も喜んでくれているとおもいます。
66年の歳月を経てよみがえった2代目「平和の鐘」が、今後とも忘れ去られないことを願っています。
実行委員会の方々には大変お世話になり、ありがとうございました。

「鐘への蟠り」

入江正樹
(「平和の鐘」鋳造の職長(責任者) 入江金造氏 三男)

何年も前から、平和の鐘の話は聞いていましたが、今年皆さまのおかげで実現出来てうれしく思います。姉の思い、家族の願いがかない草葉の陰から喜んでいることでしょう。私たちも八月が来るたび何度も思い起こし、思い出だけにひたっていたことが、何と鐘をつくまでになったのです。
一、二度公園に行き鐘を見上げては、どうして、どうして、との思いがして、平和になったのだとの思いがよみがえり、平和の鐘を鳴らす意味がむなしく胸に宿り、淋しく思ったものでした。毎年8月6日が意義のあることを願うばかりです。

「平和の鐘と父の記憶」

西本光德
(西本合金三篠鋳造所 西本秋男氏 長男)

「あの鐘は鳴らん鐘だ」と父はいつもこう言っていました。この夏初めてその音を聞いたとき、なるほどと納得したものでした。当時平和の鐘を造るという話は鋳物師の間では大変な評判で、父も見習工の松岡茂氏とともに見に行ったそうですが、注湯も見ずに帰ったそうです。

その後、広島高等工業で冶金鋳造学の教えを受けた恩師の依頼で、二度目の鋳造を引き受けたそうです。その時の図面で「この鐘は鳴らん鐘になるがこのままやるのか」と尋ねると、「時間もないのでこのまま吹いてほしい」とのことで、この形状で造ったそうです。
それからは工場に寝泊まりし時間との戦いで、型込めから型仕上げまでを松岡氏を助手として、何とか一人で造形を終えたそうです。ただし鋳込みはそうもいきません。当時の広島金属鋳造所は岩本重一氏と二人で戦後起こした工場で、新卒の見習工の松岡氏を含めても3人だけでした。
臨時の築炉の手伝いや鋳込みには多くの手助けが必要です。当所の岩屋部落の人や、金子一十氏、平賀繁好氏ら多くの若い鋳物師が市内から集まりました。また、湯茶の接待には母とともに松村会長の妹さんらご婦人方の協力も得て、無事鋳込みを完了したそうです。
鋳込み作業は大変だったようです。木造の工場の梁がみしみし音を立てるほどの重量をつり、ピットがないため型組みを平地で組み、注湯は木枠を重ねた上に歩み板を渡し、その上から鋳込んだそうです。
今では危険でやることはありませんが、当時の、命懸けだった鋳物師の心意気が感じられるものです。父の胸の内を聞くことはできませんでしたが、被爆当日、建物疎開に出た祖父を捜し回って見た広島の町や介護所の惨状、出征したきり帰らなかった仲間たちへの鎮魂と、追悼の記念碑として残すために取り組んだのではないかと思われます。以前、孫に「これはじいちゃんが造ったんだ」と見上げていた姿を思うと、本来の鐘としての追悼の音を鳴らすのは意味のあることです。市民の声と思いを込めて、市民の手で造った唯一の鐘なのですから。

<付記>平成27年11月1日

これまで、平和の鐘の鋳造の件を外で語ることは、わが家では暗黙のかん口令が敷かれていました。この仕事は経緯上、父は自分が代理人で、黒子役であると認識していたからと思われます。
このたび、このような機会があり、当時の人々も鬼籍に入った今、事実を語ることも許されるし、必要なことではないかとの助言もあり、父の仕事を語ったものです。23歳の若い鋳物師が15歳の見習工とともに、あの不備な時代にこの仕事を成し終えたことは、同じ鋳物を業とした者として畏敬の念を抱くものです。

父は戦中、大日本産業報國会の技能競練全国大会の鋳造部門で三等賞を頂きました。手のけがで造型時の汚れが無ければ、一等に値するとの講評を受け技能一級と認定されました。
松岡氏は、平成に入りアルミ合金鋳物の高度熟練技能者として認定されました。共に己の技能に誇りを持ち、鋳物に一生をささげた人たちでした。

「『平和の鐘』響け再び記念式に参加して」

大上義輝
(広島合唱同好会代表)

今年8月6日に開催された「平和の鐘」響け再び記念式に、私ども広島合唱同好会のメンバー30人が合唱団として参加させていただいた。
開式・あいさつ・黙とう・に続き、♪雲白く、たなびくところ、空のはて、東に西に、おお高くこだまひびけと、鐘は鳴る、平和の鐘に・・・・・と広島市選定の「ひろしま平和の歌」を、キーボード礒野友規子の伴奏、大上義輝の指揮で高らかに歌い上げた。
その後、現存する最古の「平和の鐘」が打たれ66年ぶりに力強く響き渡った。
私も最後に打たせていただき、その響きに胸を熱くした。
この鐘の制作に携わられた多くの方々には特別な思いがあっただろうと・・・。
これから毎年この鐘が打ち鳴らされ、広島の空に響き渡り、平和の尊さを考え直す機会になればと・・・。

『平和の鐘・ヒロシマを世界へ---永遠の生き証人』

浜井順三
(元広島市長 浜井信三氏 長男)

広島市を平和記念都市として建設するという「広島平和記念都市建設法」・昭和24年の制定を記念してつくられた正真正銘のこの平和の鐘、ヒロシマの平和への願いを世界へと響かせた。それから66年、ヒロシマは次第に風化、その願いもわれわれ自身さえ良く分からなくなっている。今回この平和の鐘の復活は、その原点である「ヒロシマの平和」について考えさせてくれるものである。調べてみると、それは第一回の平和宣言の中に原爆の惨禍を体験した人々の心の底からの真実の叫びとして、しかも、それは国を超え、世界、地球、人類としての平和が、今日に至るまで「ヒロシマの平和」の基本理念・哲学といえるものとして集約されている。そこから多くの人の献身的な国への働きかけにより、前述の国の法律の制定が実現した。この最も大きな意義はその第一条に国の意思として「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」と明記されていることである。世界的にも、歴史的にも特筆すべき平和を象徴する都市の誕生の歴史である。
今日、平和の概念は極めて多様化、極論すれば各人各様、みな違う。平和の中で「ヒロシマの平和」とは具体的には何か、第一回の平和宣言の全文の中から主な文節を左に抜粋した。

要約すると「戦争のない、原爆のない、真実の平和」「国を超えて、恨み、憎しみを超えて、世界人類としての平和理念・哲学をうたった平和の理想の建設」である。
近年、世界が国家主義的な思考に逆戻りする傾向が強まっている。われわれは今こそ地球上に二度と過ちが繰り返されないことのヒロシマの平和の理想を再認識し、自覚し、世界に向かって、また次の世代に対して伝え継いで行かなければならない。その使命を教えてくれる生き証人としての大きな意義をもって平和の鐘はよみがえったように思えるのである。

第一回平和宣言からの抜粋
・戦争の惨苦と罪悪とを
・最も深く体験し自覚するもののみが
・苦悩の極致として
・戦争を根本的に否定し
・最も熱烈に平和を希求するものである
・恐るべき兵器は(原爆)原子力をもって争う世界戦争は
・人類の破滅と文明の終末を意味する
・これこそ絶対平和の創造で、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなければならない
・大事にあった場合
・深い反省と熟慮を加えることによって、新しい真理と道を発見する
・全身全霊、平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない
・この地上より戦争の恐怖と罪とを抹殺して真実の平和を確立しよう
・永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう